教えるにあたっては、ほめる
現在は、立場上、
土曜日の仕事では教える立場にいて
平日の仕事では、教わる立場にある。
そこで、感じるのは、ほめることの重要性だ。
ミスの指摘は誰でもできることであり、
端的にそれを伝えるだけだと、緊張感が漂って空気が悪くなる。
緊張で身体が固くなれば、意識できる範囲は狭くなり、
他の事象の吸収も悪くなって、結果が悪くなってしまう。
場の空気を学びを進める形にマネジメントする重要性を感じた。
対話の中で、一つ課題を感じた点として、
「なぜ」の使い方がある。
学校のような場では、「なぜ」は単純に理由の探究の意味で使われる。
文法的にみて、これは正しい用法だ。
ところが、日本社会では、「なぜ」を
「行動や意見の誤りを自ら忖度して、相手に同調する方式へ改めよ」というような意味でしばしば使われる局面が散見される。
このため、「なぜそう思ったの?」と聞くと、相手が焦って意見を変えてしまう場面に遭うことがしばしばある。
また、やや変則的だが、平日の仕事で指示の理由を問うたところ、何やら指導役が不機嫌になるような局面が観察され、困惑させられた。べつに不服従の態度を示すつもりはなかったのだけれど。
このような日本社会の奇妙な慣行は、対話や議論を停滞させると思われる(日本固有の現象かはわからない)。