やる気を起こす

学生さんにやる気になってもらうためには、どうしたらいいか。

大きく分けて、2つ答えが思い浮かぶ。

ひとつは、背中を見せる、ということ。

もう一つは、習慣をつくる、ということ。

 

偉大な人物にシビれ、ああなりたいと思う、感染する力は強い。

大学というのは、本来はこういう感染をするために教室という場を共有するものなのだと思う。

ただ、この感染させる力、カリスマ性というのは誰でも持てるものではない。

 

そこで、次善の策として、習慣をつくる、という方法が出てくる。

感染して、自発的にカリスマのマネをする方法の代わりに

一般的に正しいとされる方法を定形化・マニュアル化して呈示するというものだ。

 

人格と切り離された方法の呈示になるから、

マニュアルを現実に実践してもらう行動を起こすのに苦労があるが、

再現可能な方法論を細分化して呈示するというのは、

カリスマでなくてもできる方法だ。

 

当面は、こうした方法論、ライフハックを収集し、文字化する作業にも取り組むことになる。

教えるにあたっては、ほめる

現在は、立場上、

土曜日の仕事では教える立場にいて

平日の仕事では、教わる立場にある。

そこで、感じるのは、ほめることの重要性だ。

ミスの指摘は誰でもできることであり、

端的にそれを伝えるだけだと、緊張感が漂って空気が悪くなる。

緊張で身体が固くなれば、意識できる範囲は狭くなり、

他の事象の吸収も悪くなって、結果が悪くなってしまう。

場の空気を学びを進める形にマネジメントする重要性を感じた。

対話の中で、一つ課題を感じた点として、

「なぜ」の使い方がある。

学校のような場では、「なぜ」は単純に理由の探究の意味で使われる。

文法的にみて、これは正しい用法だ。

ところが、日本社会では、「なぜ」を

「行動や意見の誤りを自ら忖度して、相手に同調する方式へ改めよ」というような意味でしばしば使われる局面が散見される。

このため、「なぜそう思ったの?」と聞くと、相手が焦って意見を変えてしまう場面に遭うことがしばしばある。

また、やや変則的だが、平日の仕事で指示の理由を問うたところ、何やら指導役が不機嫌になるような局面が観察され、困惑させられた。べつに不服従の態度を示すつもりはなかったのだけれど。

このような日本社会の奇妙な慣行は、対話や議論を停滞させると思われる(日本固有の現象かはわからない)。

「勉強する」ということ

「勉強した?」「いや全然してないよ」というようなやりとりはよくあるが、

「どんな風に勉強した?」というように

具体的な作業手順を訊くようなやり取りはまれだ。

 

人によって、同じ試験への対策であったとしても、

その勉強するという具体的な作業の中身は異なる。

 

「勉強する」の中身としての大まかな分類としては、

①テキストを読む

②口頭復元

③白紙復元

に3分できるように思う。

 

①には黙読・音読の下位分類がある。

②にはテキストを読んで、宙を向きながら復元を試みたり、暗記カードの表面を見て裏面の事項を口頭で復元できるか確かめるというようなヴァリエーションが考えられる。

③でも箇条書きからテストの本番形式に沿った論証を書くまである。

 

日本のテストは解答用紙に解答の記入が求められる場合が多い。

そのテスト対策としては、この本番に合わせた白紙復元が一番効果が期待できる。

①から③に近づくほどに効果が高まる。一方で、負荷が高まり、時間もかかる。

 

すると、勉強方法の選択としては、

なるべく③に寄せた上で、

電車内のように環境が許さない場合に逐次②①を組み合わせていくことになると思う。